おせんの江戸日誌

江戸と平成の世を行きつ戻りつの書き散らし

名犬タロ 

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伝蔵は変わった。
何も無くとも何かおどおどとした態度が多かったのに、それがなくなった。
せかせかした歩みぶりも落ちついた風に変わり、どこかしら思慮深げになったように見えないでもない。
それは子犬のタロを育てるなかで『何者かを養う』といったところから出てきた自信がそうさせるのだろうか。
毎日タロを散歩に連れて行くせいか、伝蔵の身体つきも何か引き締まってきたようで、逞しげになってきている。
そうは言っても うらなり顔に糸のような目や団子鼻といった造作自体は変わらないわけだが、気のせいか男前に
見えないでもないよねぇ ..... と、長屋のおかみさん連中も認める変身ぶりなのだ。

その長屋のおかみさん連中も伝蔵が犬を育て始めた当初は眉をひそめたものだ。
鳴かれたらうるさいじゃないか、子どもを噛んだらどうしよう、そういった不安があったからだ。
しかしタロは利口な犬だった。
無駄吠えはせず、子どもたちとはすぐに仲良しになったし、二度もコソ泥を撃退している。
つまり、おかみさん連中の心配はまったくの気苦労に終わったわけで、今では長屋全体の立派な番犬としてタロは
彼女たちに認められ、感謝されているほどなのである。

それに、もうひとつタロが彼女たちに喜ばれ好かれている理由(わけ)がある。
それは、おふさの姿が現れると必ず唸るからだ。その姿が見えている間中ずっと唸り続けている ......
理由は分らないが、タロが出戻りのおふさを嫌っているらしいという事におかみさん連中は快哉を叫んだ。

実は、色気たっぷりのおふさが出戻ってきてからというもの、長屋の男連中がおかしくなってしまっている。
ももひき長屋は全部で十二軒の内、男で独り者は四人。
六人が所帯持ちなのだがそのうち三人の女房持ちが、おふさにつまみ食いされた、らしい ......
そのつまみ食いもどこへ飛び火するか分らない今、おふさは長屋の女たち共通の敵になってしまったのである。
長屋の男連中がだらしなくヤニ下がる中、タロだけがおふさに敵意を示したたったひとりの男(?)だとしたら
たとえそれが犬であっても、憎いおふさには『ざまあみろ』で、おかみさん連中が嬉しがるのも無理はない。
       伝蔵笑う   柴犬 子犬
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春の朝めし 

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赤山の御隠居に春ならではのおかずを教えて頂き、実際アタシも作ってみました 何度も。
このおかずと、炊きたてのご飯、あとは味噌汁があれば至福の朝ご飯となりましょう。
いえ、昼でも夜でも、そこはそれ、お好きな時に。
以下、口伝をそのまま ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

知り合いの漁師よりシラスをさっと釜茹でにしたものをもらったのが、ついこのあいだ。
大根おろしと共に食べたりしたが、量が夫婦二人暮らしにはあまりに多かった。
で、ふと思いついて残りをカラカラに天日干しにしようと、やってみたらこれが上手く出来た訳じゃ。

それで今朝は庭先の菜の花を穫って来、洗ってざく切りにし熱鍋で煎ってみた。
菜の花は花の咲いていないのを選び、わずかに黄色の花の色を覗かせた蕾もそのまま使うことにし、天日
干しのシラス(ちりめんじゃこ)も同時に投げ込んだのは単なる思いつきである。
しかし、煎るといっても洗った時の水気が残っているから、どちらかと言えば蒸し茹でに近いのかもしれんのう。

菜の花の火の通りは早いから油断してはならぬ、気合いを入れてやらねば。
途中、菜の花の茎に『ちとまだ固さが残る』くらいで、醤油を『たらぁり』と適宜落として混ぜよ。
とにかく勝負の分かれ目は菜の花の茹だり具合、それに味付けじゃ。
醤油が多過ぎても足りなくてもいかん。
それらすべてが上手くいけば、ご飯は何杯でも食べられること必定。。。
 
 「ふむふむ 菜の花の少々の苦み、シラスのかすかな塩味とわずかな醤油の風味 ・・・
  こりゃ白いご飯に まっこと、良く合うのう 。。。。。」

              菜の花
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さぶい 

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鶴田屋に呼ばれ、その体を揉みあげることおよそ一刻あまり。
大満足の旦那をあとに外に出た徳の市の体を夜風がなぶってゆく。
揉み療治に全力を尽くした徳の市の身体は汗ばんでおり、風が心地よかった。
が、桜(はな)も咲き始めているというのに、この夜の風は冬のごとく冷たい。
そのうち身体が冷えきってしまった徳の市は、途中にある金沢町の湯屋で暖まってから帰ることにした。

さて湯屋に着いた徳の市は あとは極楽が待っている、とばかりに急いで素っ裸になった。
鶴田屋で貰った小判は盗られないよう下帯に包んで頭に乗せ、落ちないようにくくりつけている。
そして、いよいよざくろ口を入りつつ

  「アイ、冷えもん(者)でござい 」

と、冬場に入れ込み風呂に入る時お定まりの挨拶を うっかりしたところ、その後に続いた男が

  「ワシは奥州の彦左衛門でござる」

名乗ったところを見ると、どうも田舎から出て来られたお人らしい ...... と感じた徳の市だったが
時候の挨拶を交わしたこの二人、長湯が過ぎて真っ赤に茹であがるまで話し込むくらい、気が合った。

彦左衛門が江戸に滞在中のあいだ徳の市と『湯屋友だち』になったのは言うまでもない、のかもしれない。
                     湯屋で
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五文団子 

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てッ てえへんだあ〜 おとっつあん おっかさん運上だとよ 五文だとよお
よしず張りの吹けば飛ぶよな茶店に駆け込んだ杢三の大声に、裏手で湯を沸かしていた、これまた吹けば
飛ぶよなちっこい老婆が現れ『お前、野菜はもう売りきったのかい』と言うのにも構わず、杢三はさっき
聞き込んだばかりのお触れの内容を思いだしつつ、そっくりそのまま口にのぼせて

   「 江戸市中所々の道端に出せる よしず張りの茶見世、これ迄は運上にも及ばざりしが、
     この度 一々吟味して、一日五文宛の運上 納むるやう申渡す ....... だとよ おっかさん」

坂本村に住む杢三は兄の手伝いの百姓仕事をしつつ合間には穫れた作物を神田あたりで売りに廻っており、
老いた両親は雪や雨の日以外は湯島天神男坂近くに簡易な茶店を開き茶と団子を出しているのだ。

   「 御城の御老中様が田沼様から松平様に代わったと思ったら 一日五文差し出せか.... 」

   「 杢三、五文て言えばおらがとこの団子一皿分じゃが運上は銭じゃなく余った団子じゃいかんのか」

   「 おっかさん江戸にゃ茶店が二万八千軒はあるっちゅうから皆が団子を納めたら大変なことになる」

この運上金を納めることにより『灯をとぼすことを許す』という恩恵が与えられることになったようだが、
酒を出すような店ならいざ知らず、杢三の両親のやっているのは茶と田舎団子しかない茶店なのだ。
たとえ人通りが多くとも、そのような店に灯をともしたところで夜間に客など来るはずもないのである。
                   団子江戸踊り
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春風一過 

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縁側に腰掛け、胸元から出した折った紙きれを広げつつ、薮中竜竹先生へお渡ししながら

 「センセ、妙な紙きれ拾ったんですけど。アノ、歌のようなものが書いてありまして」

受け取った先生は紙きれに目を落として御覧になってましたが

 「何とも妙ちくりんじゃが、なるほど歌のようじゃのう。ふむ おもしろい」

と、関心ありありの態。なぜなら先生は医者なんですけど文芸のたしなみがございますからねぇ。
その紙きれには『みじかびの きゃぷりきとれば すぎちょびれ すぎかきすらの はっぱふみふみ』と、アタシが
昭和時代に首を突っ込んだ時に耳にした文句を書きつけたもので、拾ったなんて大嘘もいいところなんです。
実はアタシ真似したんですが、と自作の替え歌をお見せしましたら先生苦い顔つきで、つまらんの一言。

で、先生おっしゃるには『これは敢えてキチンとした言葉を使わずして作ったところに眼目ありと見たぞ』
ではワシも真似して作ってみるかのう、と少し考えられてのちに、スギカキスラのハッパフミフミ。。。。。
       たったそよそよ
春風に乗ってどこから飛んできたものか。
先生のお頭(つむり)に桜の花びらが一片張りついております。。。
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跳べ! 伝ちゃん 


伝蔵さんて、 妙ですぜ。
久しぶりに訪ねてきた参八が家に入るなり声をひそめ、そう言ったのです。

 「さっき見たら裏の空き地で ぴょんぴょん跳んでるんでげす」

裏の空き地というのは昌明寺の裏手にあたり、雑木と草ばかりのだだっ広い場所なんですが .....
そこは町の子どもたちの遊び場で、大人の伝蔵がそこで飛び跳ねているのは確かに妙な話に違いない。

今までに数々の怪異に遭遇した伝蔵、ついにおかしくなって一線を越えちゃったのか!?
あ、ご存じない方もいらっしゃるかも知れませんが、怪異のほとんどは何を隠そうアタシがからんでるんです。
だから、せめてもの罪滅ぼし、いや 慰めにでもなればと可愛い犬のタロちゃんをあげたのに .....
   伝蔵も、こうなっては手遅れかもしれない ・・・
さすがのアタシも暗い気持ちになって、参八の案内で伝蔵が跳んでたという場所に行ってみました。

ええ、空き地に入ってみると、すぐに分りました。伝蔵が跳んでた場所が。
そこだけ女物の帯くらいの幅と長さに地面がむき出しになっており、等間隔に草が生えてましたから。
むき出しの地面は踏み固めたようになっていて、等間隔の草が無ければまるで道のように見えました。

   こ、ここでピョンピョン。。。。。アァ 伝蔵 哀れ ・・・

思わず涙ぐんだアタシをお笑いください。こう見えたってアタシだって女ですもの。。。。。
そんな甘い涙にかきくれるアタシの耳に、参八の素っ頓狂な声が飛び込んできました。

 「あ、姐さんッ こいつ麻ですぜ」

等間隔に生えているのは草じゃなく麻だった・・・ 成長の早い麻の種をどこから手に入れたのか伝蔵。
麻は蒔いて四、五日もすれば芽が出、それからの成長はめざましく四ケ月もすれば十尺(三メートル強)には
育つという。
芽のうちから毎日欠かさず飛び越える訓練を欠かさず続ければ驚異の跳躍力が身につく ......
・・・って、それって忍者? そうなのかい エ!? 伝蔵さんヨ ・・・
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春の朝 


野良犬が、開けたばかりの茶店の前を白い息を吐きながら横切って行った。

きのうまではずいぶん暖かかったのに、今朝は霜がおりていたものねえ。
こういうのを寒の戻りと言うのかしら それにしても梅の花のいい匂い ......

おゆみは手早く襷(たすき)をかけつつ、犬が去って行った永代寺の方を見やった。
まだ朝五ツ(午前八時)、道に人影はほとんどない。
その人影の見えない道筋を伝って八幡様の梅の香が流れてくる気がして、おゆみは大きく息を吸った。

おゆみは十二才、早くに両親を亡くし今は母方の祖父母と三人で永代寺近くの門前山本町に暮らしている。
住まいを兼ねたその茶店では、永代寺やその隣の富ケ岡八幡宮への参詣客相手の団子を売っており、祖母の
おツルが作ったそれは評判もいいらしく小さな商売ながら固定の客もついているらしい。

ところで、朝も早いこの時刻は団子はまだ準備の段階で売ることはできない。
売るのは房楊枝や歯磨き粉で、これは永代寺門前仲町に軒をつらねる娼家に泊まった客を相手にしている。
泊まりあけの男たちは五ツを過ぎてしばらくすると路上に現れ始め、茶店で買った歯磨き道具を携えるや
これも五ツから開く湯屋に行き、朝風呂でさっぱりするというわけである。

岡場所の近くで、朝っぱらから脂粉の香りを漂わせ酒焼けした男たちを相手に楊枝を売るのも悪くない .....
だって『とうてい岡場所帰りとは思えない』あの御方がいらっしゃるもの・・・
ほとんど毎朝のように茶店の前を通る若い侍が気になるおゆみの、これは初恋なのかもしれない。
                  紅梅
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相棒に 


古紙買いの伝蔵が、きょう買い取った中に緋色の湯文字(ゆもじ:腰巻)があった。
ただ、緋色といっても使い込まれたそれは色あせており生地も傷んでいる。

これを親方に差し出しゃ 間違いなく浅草紙の材料として梳き込まれるに違いねえ。
そう思った伝蔵はこれを自分のものとすることに決め、湯文字を親方に納めなかった。
買い取りの元手(もとで:資金)は親方から出ているから、この湯文字分は伝蔵の手取りが減るわけだ。


湯文字は女が下半身に着ける肌着で、これを我がものとした伝蔵。しかも褪せているとはいえ緋色...
伝蔵にはそんな趣味があったのだろうか .....

そして湯文字を懐にした伝蔵、にやにやいそいそと さも嬉しげに家路についたものだ。
やがて、ももひき長屋に帰り着くと伝蔵は持ち帰った湯文字を細長く裂き始めた。

伝蔵はこの裂いた布きれを幅広に組みあげ、可愛いタロに首輪を作ってやるつもりなのだ。
これで伝蔵、手先が案外器用なのである。

土間では餌を食べ終えたタロが夕方の散歩を待って、尻尾を振りつつ伝蔵を見上げている。
             タロ
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数寄屋河岸ぶるうす 


浅草奥山の、とある小屋から出たばかりの九平、ちょっと情けない顔つきになっている。
九平が出てきたのは、代金がひとり十文の大穴子(おおあなご)の見世物小屋である。

大穴子といっても品川の鯨ほどは、まさかあるめえ。
いや、わかんねえぞ。などと、九平いささか興奮気味で入ったわけだが ......
そこで九平が見たのは小屋の中に広く浅く掘られた穴にちょこんと座ったひとりの子どもだった。

  「 大穴 ....... 子 ?」

おりしもちょうど昼時で、洟をたらしたその子どもは握りめしにかぶりついていたものだ。
もちろん穴子など影も形もなかったのである。

久しぶりの休みで、きょうはいま流行りの天婦羅蕎麦を食べるつもりだった九平、懐にはわずか二十文しか
残っておらず、二十五文する天婦羅蕎麦には手が届かない。

 それにしても腹が減ったな。さっきの十文だけでも豆腐田楽が五本は食えたのになあ。
 ああもう腹が数寄屋河岸で目が丸屋町だい。
 ええい、もう。小汚い店だがここで、めしとのっぺい汁でも食べよ .....

が、しかし
ふらふらと『だいこ屋』に入った九平は、このあと世にも不味い昼めしを食べることになるのである。
                   目がまわる
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斬夢 


闇夜のはずなのに五間ほど先の永代橋のたもとに男がうずくまっているのがはっきり見えるのは不思議だ。
木田申次郎(きだ しんじろう:十八才)は、すでに父の形見の名刀竹田左文字の鯉口を切っている。
近づく申次郎に気づかぬのだろうか、男はぴくりとも動かない。 だが油断してはならない。
そやつが岩崎なら彼は居合術の名手、申次郎の放つ殺気をすでに感知しているに違いないからだ。

案の定 男は亡き父の仇、岩崎栄之進だった。
たもとで男に「岩崎殿か」と問いかけるや、すかさず白刃の一閃(いっせん)が申次郎を襲ったのだ。
殺気を消して近寄る申次郎に岩崎はすでに気づいており、間合いをはかるとしゃがんだまま抜刀したのである。
岩崎恐るべし。その剣は正確に申次郎を襲った。が、申次郎の抜刀のほうが一瞬早かったようである。
走り抜けながら振るった申次郎の剣は相手の頸動脈をはね斬り、岩崎はその一太刀で絶命したのだ。

申次郎は父甚乃助に七才の頃より剣術の手ほどきを受けており、父は今枝流の名手であった。
が、手ほどきといっても子ども相手とは思えぬほどの凄まじいもので、当時の申次郎の体には傷やあざが絶えず、
木田父子の稽古は誰が見ても、手ほどきなどというような生易しいものではなかったのである。

見事仇を討った申次郎が亡き父との稽古を懐かしく思いだしつつ永代橋の中ほどまで歩んだところで、背後から
あえぐような「よ、く、も、殴ってくれたな」と言う男の声が追いかけてきた。・・・・ 岩崎だ!
い、岩崎はまだ生きていた! が、殴ってなどいない。斬った。これで確かに斬ったのだ。
申次郎は腰の竹田左文字をすらりと抜いた。が、抜いたそれは左文字とは似ても似つかぬ木刀ではないか。
このようなことがあっても良いのだろうか?茫然とする申次郎。
そこへいつのまにか いざり寄って来ていた岩崎が、骨に皮が張りついただけのような双腕を伸ばし、申次郎の
両足首をこの世のものとも思えぬ力で掴み「また 殴る気か」としわがれた声で言った。
見ると岩崎の首は半分ぶらさがっており、半開きの口からは赤黒い血がどくどくと流れ出している・・・ 
そこで申次郎は「ウワアーッ」と叫んで飛び起き、周囲をきょときょと見回した。
台所からは母の朝餉の支度をする音が聞こえてくる。それで、あ、夢だったのかとようやく気づいた申次郎。
素早く起き上がると手早く身支度を済ませ、家を出て父の待つ稽古場へと一散に走った。

浪人木田甚乃助は深川熊井町正源寺裏にある一戸建ちの平家に妻子と三人で暮らしている。
ゆえに稽古場といっても家の隣に広がる草地ではあるが、近ごろの申次郎の剣の上達はめざましいらしい。
                         名刀
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若殿 


治平衛は師の代理として大名屋敷におもむき、藩士たちに稽古をつけることが多かった。
その稽古先のなかに小野藩の屋敷があったわけだが、そこの殿さまは非常に剣術を好んだ。
参勤交代で播磨から江戸に出仕すると暇を見つけては藩士の稽古場に姿を現すこともめずらしくない。
ま、そこまでは良かったのだが、そのうち七才になる我が子市介にも

 「赤山殿に、ぜひとも御教導ねがいたい」

などと口にするようになったものだから治平衛は困惑もし、恐縮もした。
堀道場の四天王だの竜虎だのと人に言われはしても『いずれ藩主になる御方に剣術』をどのように教えて
いいものか見当がつかないし、「まだ修行中の身なので」と断ったのだが殿さまはあきらめない。
道場主の堀宗伝に働きかけ、とうとう押しきってしまったものだ。
それで心を決め、若殿市介の剣の上達よりも『体と精神を鍛える』ことを主眼に稽古をつけることにした
のだが、市介はなかなかに熱心で治平衛とも気が合い、この稽古は市介が二十一で藩主になるまで続いた。

それから二十年。
その後堀道場の後継者となった赤山治平衛であったが今は身を退き、隠居の身となっている。
もちろん剣術を人に教えることも無くなり、持て余さんばかりの時間を菜園と囲碁にさいている治平衛だが、
数ある弟子のなかでも市介殿はワシにとって特別な弟子、懐かしいのう ・・・と、折りにふれ思う。
  
その特別な弟子の市介、今は播磨小野藩の第六代藩主となった一柳末英から『近々お会いしたい』と屋敷に
招待されたものだから、このところの治平衛はその日がくるのが待ち遠しくてならないでいる。

          江戸の地図
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